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江戸幕府公式史書『徳川実紀』に見る「神君伊賀越え」

 五月。君、右府の居城、近江の安土にわたらせたまへば、穴山梅雪もしたがひ奉る。右府、おもたゞしき設ありて、幸若の舞、申樂など催し饗せられ、みづからの配膳にて、御供の人々にも、手づからさかなを引れたり。
 右府、「やがて京へのぼらるれば、君にも京、堺邊まで遊覽あるべし」とて、長谷川竹丸(後に藤五郞秀一といふ)といへる扈從を案內にそへられ、「京にては、茶屋といへるが家(茶屋四郞次郞。本氏は中島といふ。世々豪富之)を御旗舘となさるべし」とて、萬に二なく沙汰せらるれば、君は先立て都にのぼらせ給ひ、和泉の堺浦までおはしけるが、「今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり右府父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せ」とて、御供にしたがひし茶屋をば先にかへさる。
 又、六月二日の早朝、かさねて本多平八郞忠勝を御使として、「今日、御歸洛あるべき」旨を右府に告げさせ給ふ。君も引つゞき堺浦を打立給へば、忠勝、馬をはせて都にのぼらんと、河內の交野、枚方邊まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て追かけかけ來る者を見れば、かの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、「世は、はやこれまでにて候。今曉、明智日向が叛逆し、織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り、織田殿、御腹めされ、中將殿も御生害と承りぬ。此の事、告げ申さんため參候」といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを、君、遙に御覽じ、そのさまいかにもいぶかしくおぼし召し、御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ、茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ、御道の案內に參りし竹丸を近くめし、「我、このとし頃、織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには、光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども、此の無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは、いそぎ都にのぼりて知恩院に入り、腹きつて織田殿と死をともにせん」とのたまふ。竹丸聞て、「殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切りて、このほどのごとく御道しるべせん」と申す。「さらば平八、御先仕れ」と仰ければ、忠勝と茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。御供の人々は「何ゆへにかくいそがせ給ふか」とあやしみ行ほど廿町ばかりをへて、忠勝、馬を引返し石川數正にむかひ、「我君の御大事けふにきはまりぬれば、微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。君、年頃の信義を守り給ひ、織田殿と死を共になし給はんとの御事は、義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去りながら、織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば、いかにもして御本國へ御歸り有て、軍勢を催され、光秀を追討し、彼が首切て手向給はゞ、織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれ」と申す。石川、酒井等、是をきゝ「年たけたる我々此所に心付ざりしこそ、かへすべすも恥かしけれ」とて其よし聞え上しかば、君、つくづくと聞召れ、「我、本國に歸り、軍勢を催促し、光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去りながら、主從共に此の地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ、山賊、一揆のため、こゝかしこにて討れん事の口おしさに、都にて腹切べしとは定めたれ」と仰らる。其の時、竹丸、怒れる眼に淚をうかめ、「我等悔しくもこたび殿の御案內に參りて主君㝡期の供もせず、賊黨一人も切て捨ず、此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿、御歸國ありて光秀御誅伐あらん時、御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思ひ召さるべきか。此の邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は、皆、某がとり申たる事なれば、某が申す事、よもそむくものは候まじ。夫れ故にこそ、今度の御道しるべにも參りしなり」と申せば、酒井、石川等も、「さては忠勝が申し旨にしたがはせられ、御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候」といさめ進らせて、御歸國には定まりぬ。
 穴山梅雪も、これまで從ひ來りしかば、「御かへさにも伴ひ給はん」と仰ありしを、梅雪、疑ひ思ふ所やありけん、しゐて辭退し引き分れ、宇治田原邊にいたり、一揆のために主從みな討たれぬ。(これ、光秀は、君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを、土人、あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も、「討ずしてかなはざる德川殿をば討もらし、捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、吾命の拙さよ」とて後悔せしといへり。)
 竹丸、やがて大和の十市がもとへ使立て案內をこふ。忠勝は「蜻蛉切」といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立、道案內させ、茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ、河內の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市より「あないに」とて吉川といふ者を進らせ、三日には木津の渡りにおはしけるに、舟なし。忠勝、鑓さしのべて、柴舟二艘引よせ、主從を渡して後、鑓の鐏をもて、二艘の舟をば、たゝき割て捨て、今夜、長尾村八幡山に泊り給ひ、四日、石原村にかゝり給へは、一揆おこりて道を遮る。忠勝等、力をつくしてこれを追ひ拂ひ、白江村、老中村、江野口をへて吳服明神の祠職・服部がもとにやどり給ふ。五日には服部、山口などいへる地士ども御道しるべして、宇治の川上に至らせ給ひしに、又、舟なければ、御供の人々「いかゞせん」と思ひなやみし所、川中に白幣の立たるをみて、「天照大神の道びかせ給ふなり」といひながら、榊原小平太康政、馬をのりこめば、思ひの外、淺瀨なり。其の時、酒井忠次、小舟一艘尋出し、君を渡し奉る。やがて江州瀨田の山岡兄弟迎へ進らせ、此の所より信樂までは山路嶮難にして、山賊の窟なりといへども、山岡、服部、御供に候すれば、山賊一揆もおかす事なく信樂につかせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは、山口、山岡等がゆかりなれば、この所にやすらはせ給ひ、高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり、音聞峠より山岡兄弟も辭し奉る。
 去年、信長、伊賀國を攻られし時、地士どもは皆殺たるべしと令せられしにより、伊賀人、多く、三遠の御領に迯來りしを、君、あつくめぐませ給ひしかば、こたび其の親族ども「此の御恩にむくひ奉らん」とて、柘植村の者二、三百人、江州甲賀の地士等百餘人、御道のあないに參り、上柘植より三里半、鹿伏所とて、山戝の群居せる山中を難なくこえ給ひ、六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ、其地の商人・角屋といへるが舟をもて、主從この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹きて、三河の大濵につかせ給ひ。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。(これを「伊賀越」とて、御生涯御艱難の第一とす。)

「神君伊賀越え」-3つの不思議-

「神君伊賀越え」が不思議なのは、
①なぜ堺の織田軍と合流しなかったか?
②なぜ堺から船で大浜に戻らなかったか?
③「大和越え」には1次史料が存在するのに、なぜか学説は「伊賀越え」。
です。


①「徳川家康織田信長を討った」という誤報が流れていたから?
②少年時のトラウマで船が大嫌い?
③「伊賀越えの方が資料が多いから」というが、それらの資料は江戸時代の2次資料であって、当時の1次史料には「大和越え」とあります。

神君伊賀越え

「神君伊賀越え」のルート4説

 

近江国ルート(甲賀越え) :堺(妙國寺)→木幡越→徳永寺→白子
伊賀国ルート(伊賀越え①):堺(妙國寺)→桜 峠→徳永寺→白子
伊賀国ルート(伊賀越え②):堺(妙國寺)→御斎峠→徳永寺→白子
大和国ルート(大和越え) :堺(妙國寺)→竹内峠→徳永寺→白子

 

以前は『徳川実紀』の③説が通説であったが、現在は②説が通説である。

 

 

信長の首

織田信長明智光秀に討たれた。

 

しかし、首が見つからなかったので、

 

織田信長は生きている」

 

という噂が流れ、明智光秀に味方するのを恐れた武将もいたという。

 

──信長の首はいずこ?

 

 

「巨大な爆発音を聞いた」

 

と証言した者がいる。

 

当時の本能寺には多くの鉄砲や火薬が保管されていたという。

 

織田信長の遺体は爆発でバラバラになった?

築山殿と信康母子を殺したのは織田信長か?

『どうする家康』の織田信長は、

「お前の家中の事じゃ。俺は何も指図せん。お前が決めろ」

と言った。「お家騒動」という扱いなのであろう。

 

でも、『どうする家康』の徳川家康は、「築山殿と信康母子を殺したのは織田信長」だとして、織田信長を恨んだ。逆恨みでは?

 

私が徳川家康なら、築山殿と信康母子を拉致して、織田信長には「行方不明。武田勝頼が拉致したのでは?」と報告するけどね。

妙國寺

 2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」の本編終了後の「聖地潤礼」の地が本能寺ではなく、妙國寺だったのが印象的であった。

 

 ようするに、『どうする家康』の主人公は織田信長ではなく徳川家康であるので、織田信長がいた本能寺ではなく、徳川家康がいた妙國寺を訪れたということであろう。

 

 当寺は、日蓮宗本山由緒寺院で、本尊は釈迦、多宝如来・首題宝塔・四菩薩・日蓮聖人です。
 永禄5年(1562)、堺を支配していた三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と日珖上人の尽力によって建てられました。日珖上人は、堺の豪商、油屋(伊達)常言の息子です。堺での日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受け、朝廷より勅願寺と定められました。徳川家康本能寺の変の際に寄宿していたことでも知られ、大坂冬の陣の際には、灰被天目茶碗(大名物・徳川美術館所蔵)を持ち帰り、返礼としてソテツを見て詠んだ歌と光堂天目茶碗を贈ったという逸話が残っています。
 境内には他では見ることができないソテツを中心にした「枯山水の庭園(堺市指定名勝)」があります。国の天然記念物に指定されている「大ソテツ」は樹齢千年余りといわれ、織田信長をも恐れさせたという伝説の樹です。また、幕末にフランス兵との間におこった「堺事件」において、11人の土佐藩士が切腹した場所でもあります。土佐藩士らは北側の宝珠院に葬られました。

                             (妙國寺現地案内板)

 

■日本三大蘇鉄

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